1)はじめに
萬葉集には「紐(ひも)」を詠んだ歌が多くあります。 その「紐」にはどんな意味があるのか考えてみました。
『萬葉集』諸本の底本とされる西本願寺本『萬葉集』影印本では「紐」の字は「糸刃」と表記されています。 その字を日本で一番古い漢字辞書『新撰字鏡』で調べてみました。
「糸刃 環也 索也 襞結也 比毛」(享和本)
*「糸刃 ①環(たまき) ②索(つな) ③襞結(足結) ④比毛(ひも)」
「紐 糸也 束也 釼也」(天治本)
*「紐 ①糸(いと) ②束(たばねる) ③釼(くしろ たまき)」
2)紐(糸刃)=環(釼 たまき)
万葉集歌の「紐」は腕や手に巻く「腕巻、たまき」を意味する時があります。
淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す
(巻三249番から256番に柿本人麻呂の羇旅の歌が八首あり、この歌は251番です)
「妹が結びし紐(妹之結紐)」とはどんな「紐」でしょうか? 私は妻や恋人が、旅の安全を祈って、柿本人麻呂の腕に結んでくれた「腕巻き」だと思います。 この「紐」は妻や恋人が男達の腕に結ぶ、灘祭の「腕守り」にそっくりです。 瀬戸内海の播磨灘で行われる灘祭では、妻や恋人たちが祭の安全を祈り、男たちの裸の腕に「腕守り」を結びます。 人麻呂も漁夫たちと同じように裸の腕に「紐」を結んでもらっていたと思われます。
何故なら252番には、次のような歌を詠んでいます。
荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人とか見らむ旅行くわれを
藤江の浦でスズキを釣る海人と見はしないだろうか、旅行く私を(訳注は岩波書店版)
この歌から見ると、旅行く人麻呂は海人と同じような身なりだったと思われます。
3)紐(ひも)=帯(おび)
万葉集歌の紐(ひも)は帯(おび)と同じ意味で使われる時があります。
下記の歌は7月7日の七夕を詠んだ長歌に続く短歌です。
巻十2090番 狛錦 紐解易之 天人乃 妻問夕叙 吾裳将偲 (原文)
高麗錦(こまにしき)紐解(ひもとき)交(かは)し 天人(あまひと)の 妻問ふ夕(よひ)ぞ われも思(しの)はむ (中西進 読み下し)
高麗錦の紐をときあって天の男が妻どいをする夜であるよ。私も思い見よう。(中西進訳)
この歌は七夕の夜、彦星と織姫が紐(帯)を解いて共寝をすることを詠んでいます。 七夕を詠んだ歌に、万葉集では、「紐解(ひもとく)」という表現がよく出てきますが、中国の詩では、それが「解帯(帯を解く)」という表現になっています。 どちらも七夕の夜には彦星と織姫が衣を脱いで共寝をすることを、詩的に表現する言葉だと考えられます。