1)十六夜月と大文字
京都では新暦のお盆(8月13日~15日)に迎えた精霊を8月16日の夜に五山に火文字や図形を燃やして送ります。今年(2019年)の8月16日は旧暦七月十六日に当たり、十六夜月が東の空に上った時に東山に「大文字」の火がともされ、東から西へと火文字や図形が順々に点火されました。昔は旧暦でこの精霊送りをしたので、旧暦七月十六日には常に十六夜の月が上りました。でも新暦になり、8月16日に十六夜月を見るのは十余年に一度になりました。この珍しい光景を映すテレビ中継もあり、私は十六夜月と五山送り火を我が家で見物しました。
2)月は死者の霊魂
十六夜月と送り火を是非とも京都で見たいと、光田和伸先生は台風一過の四国から8月16日夜に京都に来られて念願を果たされました。光田先生は「五山送り火は死者の霊魂が西方浄土に帰っていく道標として東から西へと火を燃やしている。東山の上に出て西へ渡る十六夜月は精霊を表している。」とおっしゃいます。この話を聞いて私は万葉集に死者の霊魂を月で表している歌があることに気が付きました。
3)大王(おほきみ)の御壽(いのち)長く天の月(たる)たり
万葉集巻二の挽歌に次のような歌があります。
147番 天原振放見者大王乃御壽者長久天足有
148番 青旗乃木旗能上乎賀欲布跡羽目尒者雖視直尒不相香裳
この二首は題詞に天智天皇がご病気の時に大后が奉ったとありますが、崩御後の歌との説もあります。二首の一般的な読み下し文は、
147番 天の原振りさけ見れば大君の御壽長く天足らしたり
148番 青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢わぬかも
147番最後3文字「天足有」は諸本で、「あまたらしたり」と読んで、「天空に充足している(中西進)」、「大空に満ち溢れている(岩波書店版)」などと訳されていますが、私は「足=たる=月」だから、「あまのたるたり」と読んで、「天空の月になられた」と訳したいと思います。韓国漢字「月」は訓読みで「たる」、音読みで「ウオル」です。「月」の異名として「たる」を使っている例に、万葉集巻十三3280番、3281番の長歌最後「天之足夜」があります。この「天之足夜」=「天之月夜」です。
「足=たる=月」とすれば、二首の挽歌の意味はよくわかります。
147番「天空を仰ぎ見れば、天皇は月になって永久に生きておられる」
148番「木々の茂った木幡(こはた)山の上を(お月様になられた天皇が)通っておられるのは目には見えるけれども、現身の天皇にはもうお逢いできない」
崩御された天智天皇への倭大后の挽歌の意味は、天皇が「月」になられと詠んでいることを知れば、とてもよく理解できます。
4)天武天皇への大后の挽歌
天武天皇への大后(持統天皇)の挽歌も天皇が「月」になられたことを暗示していると思います。巻二159番(天武)天皇崩之時大后御作歌一首を読み下し文で記します。
159番「やすみしし 我が大君の 夕されば 見したまふらし 明け来れば問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし (後略)」
崩御された天皇が神岳の山の黄葉を夕方に見られ、朝方に訪問されると詠むのは、天皇の霊魂が「月」になって毎夜見に来られることを暗示しているとしか考えられません。
また(天武)天皇崩之時太上(持統)天皇御作歌にも月が詠まれています。
161番 向南山陳雲之青雲之星離去月牟離而
南山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月も離れて
*「向南山」は「なんざんに」、「月牟」は「月も(西本願寺本)」と読みたいと思います。
この歌は「南の山に白雲、青雲がたなびき、星も消えていき、月も消えていく」と日の出前の情景を詠んでいます。夜明けとともに「月」になられた天皇が目には見えなくなっていくことを嘆いた歌です。
5)日並皇子尊への柿本人麻呂の挽歌
日並皇子尊(天武と持統の御子、草壁皇子)殯宮之時、柿本人麻呂は挽歌を詠みました。巻二167番長歌、168番短歌に続いて、
169番 あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
これも161番歌と同じように、朝になって日が照り、夜空の「月」になられた皇子が目には見えなくなったのを嘆いた歌です。
6)月西渡(つき にし わたる)
軽皇子(草壁皇子の御子)が安騎野に宿った時、柿本人麻呂が亡き草壁皇子を偲んで詠んだ歌が巻一(45番~49番)にあります。48番の歌は有名で多くの人に知られています。原文と読み下し文を記します。
48番 東野炎立所見而反見為者月西渡
ひむがしの野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかヘり見すれば月西渡る
*「月西渡」は「月かたぶきぬ」と読むのが一般的ですが、「月にしわたる」と読む説もあります。
歌の意味は「東の野に陽炎の立つのが見えて、振り返って見ると、月は西空に隠れようとしている」。 西の空に消えて行く「月」は亡き草壁皇子を暗示し、東の空をまっ赤に染めて今昇ろうとしている「朝日」は軽皇子を暗示しています。 この歌は死者が復活する冬至の日に詠まれたといわれ、亡き草壁皇子の霊魂は今、軽皇子として蘇ったのです。
また安騎野(奈良県宇陀市)で、「かぎろひ」が東の空に見えて、月が西に渡るのは旧暦十一月十七日の頃とされています。 だからこの歌は冬至が十一月十七日だった持統天皇七年に詠まれたに違いないと私は考えています。
7)野火のような送り火
巻二230番 志貴親王薨時の歌に「春野焼く野火のように燃ゆる火を何かと問えば、葬礼の手に持つたいまつの火だと答えた」という長歌があります。 京都五山の送り火は室町、江戸時代に定着したといわれていますが、万葉集を読むと、古代にも死者の霊魂を野火のように燃ゆる火で送ったと思われます。五山送り火は十六夜月の時に、上賀茂神社辺りから見るのがよいと光田和伸先生はおっしゃいます。 京都に鴨族が住み始めた頃からこのお盆十六日の精霊送り火は燃やされていたのでしょうか?