亥年に「播磨国風土記」の猪を考える

亥(安志加茂神社)写真は岸本道昭氏提供

1.はじめに

  2019年の干支は「亥」です。 「亥」は十二支の第十二位で、日本では「い、ヰ」と訓読みして、動物では「猪、ゐ、イノシシ」のことです。 しかし日本を除く漢字使用圏では「亥」は、動物では「猪=豚」のことです。 中国や韓国では「亥年」は「豚年」を意味します。 特に韓国では、「豚」の音読み「トン」は韓国固有語で「お金」を意味するので、「豚年」は縁起の良い年とされているそうです。

 『播磨国風土記』には品太天皇が猪狩をする話が揖保郡、神前郡、託賀郡などにあり、「猪」は「イノシシ」の事だとずっと思っていました。 でも、「猪」は「ブタ」のことかもしれないと思い始めました。

 そう考えるきっかけは2018年秋、第70回正倉院展で見た文書です。 新羅から輸入された食器を包んでいた反故紙に書かれた文書で、解説は次のように書いてありました。

 「文面や使用される文字から、新羅で書かれたものと考えられている。 (中略) 表には、動物の肉の管理状況が二件、(中略)、片仮名の「キ」のように見える文字は、犭(けものへん)であり、イノシシのことを指している可能性が高いとされる。」 

 図録を買い求め、説明文を読み返していて、はっと気が付きました。 韓国では、「猪」=「豚」です。 この新羅文書の肉は猪肉じゃなくて豚肉のことではないか。 「犭」=「猪」で、それはイノシシではなく、ブタを指しているに違いありません。

 なぜ「犭」の字が正倉院展で目に留まったのか。それは『播磨国風土記』の揖保郡桑原条に、「飼犭石」があるからです。原文はそう書いています。 しかし、広く一般に「銅牙石」と改変されている語句です。 原文の「飼」は、どう見ても「銅」ではありません。 問題は「牙」ですが、この字は「牙」よりも「犭」に近い字です。 新羅文書の解説では「犭」=「猪」と考えられています。 風土記の原文と新羅文書の「犭」とを見比べながら、「飼犭石」⇒「飼猪石」?と考えていて、そうだ!この語句の意味や読みを知るために、風土記に出てくる、「飼」と「猪」の字を調べてみようと思い立ちました。

 

2.ゐかひの=猪飼野=ブタを飼う所

 『播磨国風土記』賀毛郡山田里に猪飼野(猪養野)の地名説話があります。 諸本で「猪」は「ゐ」と読まれています。この訓読を参考にしながら、次に口語訳を記します。

 「山田里土中下 ()(かひ)() 山田と名付けたのは 人が山際に居たので里の名にした。 猪飼(ゐかひ)と名付けたのは 難波(なにはの)高津(たかつの)(みや)御宇天皇(仁徳天皇)の世に 日向(ひむかの)肥人(くまひと)(九州日向の肥の国の人)朝戸部君が天照大神の船に猪()を持ち参り来て進上し、飼う所を求め申し仰いだ。 そして此処を賜り、猪()を放し飼いにした。それで猪飼野と云う。」

 賀毛郡山田里は今の兵庫県小野市山田とされていますが、猪飼野という地名は残っていないようです。 猪飼野と聞いて思い浮かぶのは、大阪の環状線鶴橋駅近くの「猪飼野」です。 ここには仁徳天皇を祀る「御幸森天神宮」があり、その境内には 王仁博士が仁徳天皇の即位を祝して詠んだ歌「難波津に咲くやこの花~」の碑が日本語とハングルで記されて建っています。 猪飼野は猪甘津(ゐかひのつ)と呼ばれる古代の港があったことに由来し、 猪甘津は日本書紀仁徳天皇十四年条にも記され、猪甘部(ゐかひべ)と呼ばれる官職を務める者が住んでいたといいます。 猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する部民です。また、付近は百済野と呼ばれ、百済からの渡来人が多く住んでいたそうです。

 猪甘部(ゐかひべ)は豚を飼育するので、猪飼野の「猪」はブタのことです。 先の『播磨国風土記』賀毛郡山田里条の説話と、強く関わる話だと思います。

 ところで、万葉集にも「()養乃岡(かひのをか)」の地名が出てきます。 巻203 題詞に、但馬皇女が亡くなられた後、穂積皇子が、雪の降る日に、遙かに御墓のある猪養の岡を望んで詠んだ歌とあり、「降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに」(訓読は岩波書店版)

吉隠(よなばり)は今の奈良県桜井市初瀬にあり、猪養の岡もその辺りだと云われています。 但馬皇女の御墓があった猪飼之岡は、もしかして、但馬ゆかりの人がやって来て、そこで猪養(ゐかひ)をしていた場所だったのではないでしょうか? 

 

安相里で猪飼をする但馬国朝来の人

 ここでは、但馬の人が播磨国にやって来て、猪飼(ゐかひ)をした話を述べたいと思います。 え!そんな話が『播磨国風土記』にあるの?!と驚かれる方も多いかも知れませんが、飾磨郡安相里には、「豢(ゐかひ)」の話が書いてあります。

 飾磨郡安相里では、「豢」の字の解釈が諸本で大きく異なっています。 山川出版社版は「豢」を「ゐかひ」と原文の字を改変せずに読んでいますが、他の本では、「豢」を「蒙」や「剝」などに変えております。 この地名説話を印影本(八木書店版)の原文を基に、文節ごとに原文、口語訳、解説と記していきたいと思います。

 

ア) 天皇は削(カムサシ)を刺していなかった

原文 「安相里 (中略) 品太天皇従但馬巡之時 縁道不扌徴御削故号陰山前」

口語訳 安相里 (中略) 品太天皇が但馬より巡っていた時 縁道で()(かむさし)を刺していなかった(だから御陰(みかげ)が落ちた)。 それで陰山前(かげやまのさき)と名付けました。

解説 なぜ御削を刺していなかったことが陰山前と名付けられる理由になったのかが理解しにくいのですが、後の神前郡蔭山里の地名説話には、「品太天皇の御蔭が此の山に落ちたので蔭山といいます」とあります。 この「蔭山」と「陰山前」の「陰山」は同じ山と考えられます。 そこで、「品太天皇が御削を刺していなかった」ので「品太天皇の御蔭が此の山に落ちた」と解釈しました。 

 次に、「削」=「笄(カムサシ)」と考えます。原文には「削」の異体字が書いてあり、『新撰字鏡』には「削 刻木也 刀室也 笄也」とあります。「削」は冠()が落ちないように髪に刺す笄(カムサシ)のことです。) 「扌徴」は『大漢和辞典』に「刺す」とあるので、「不扌徴御削」は「御(かむさし)を刺しておられなかった」と訳しました。  

 

イ) 豢(ゐかひ)の名を被る

原文 「仍国造豊忍別命被豢名」

口語訳 よって、国造豊忍別命は 豢(ゐかひ)の名(姓=かばね)(こうむ)りました。

解説 国造の豊忍別命は品太天皇が但馬から播磨に巡行される時に、冠()が落ちないように天皇の髪に御笄(カムサシ)をお刺し申し上げなくてはならないのに、うっかり忘れて、蔭山里で天皇の御蔭が落ちてしまいました。 その罪により「豢」の姓(かばね)を被りました。 

 「豢」はどんな意味でしょうか? 辞書を引いてみると、「豢 穀物によって豚や犬を飼育する」(『漢辞海』) 「豢 養豕 カヘルヰノコ」(『類聚名義抄』) 「豢 穀養蓄」(『新撰字鏡』) これらを総合すると「豢=穀物によって豚を飼育する=養豕=カヘルヰノコ=猪養(ゐかひ)=猪飼(ゐかひ)」です。 即ち、豊忍別命は「穀物を用いて豚を飼う」役職の「猪甘(ゐかひ)の姓(かばね)」を与えられたのです。

 

ウ) 但馬国造の豊忍別命 と 従者の阿朝尼命

原文 「尒時但馬国造。朝尼命申給依此赦罪」

口語訳 この時 但馬国造と阿胡尼命は(罪の償い策を)申し上げました。 これにより、罪を赦されました。

解説  但馬国造=国造豊忍別命と私は考えます。 原文では但馬国造と朝尼命の間に「。」が書かれ、その右横に小さく「」と書いてあります。 諸本では、但馬国造と阿朝尼命(阿胡尼命)は同格で、但馬国造=阿胡尼命とされていますが、それは正しいでしょうか。 

 私は、但馬国造は阿胡尼命ではなく、豊忍別命と考えます。 阿胡尼命は神前郡多馳里に登場する佐伯部等始祖「阿我乃(あがの)()」にそっくりです。阿我乃古は品太天皇が播磨を巡行された時の大御伴人(従者)で、天皇に(ただ)にお願いしたから多馳(ただ)里と名付けた土地をもらいます。 阿胡尼命と阿我乃古は同一人物で品太天皇が巡行された時の従者と考えられます。 但馬から来て、播磨で冠()が落ちたので、出発地の但馬国造と、ずうっと付き従っていた阿胡尼命の双方に咎があるとされました。 二人の責任者、但馬国造と阿胡尼命がどんな贖罪の策を申し上げたのかは、次に明らかになります。 

 

エ) 塩代田を奉り、朝来の人が来て猪飼(ゐかひ) 

原文 「即奉塩代塩田廿千代 有名塩代田 飼但馬国朝来人到来居於此処 故号安相里」

口語訳 即ち、塩の代わりに塩田四十町歩を(たてまつ)りました。 それで、塩代田(しほてた)という名があります。 (穀物を用いて豚を)飼うために但馬国朝来(あさこ)の人が来て此処に居ました。 だから安相(あさこ)里と名付けました。

解説 贖罪として、塩の代わりに塩田を献上したので、そこは塩代田という名で呼ばれました。 塩田を奉ったのは阿胡尼命でしょう。 阿胡尼命は播磨国飾磨郡の塩田廿千代を献上することで罪を赦されました。 塩田廿千代の「代」=「頃(シロ)」=地積の単位で、廿千代」は四十町歩ほどの広さです。海浜の広い土地を指していると思われます。

 これに似た話が日本書紀仁徳天皇四十年条にあります。【播磨佐伯直阿餓(あが)()()は仁徳天皇の命令で雌鳥皇女を殺した折に皇女の手玉を奪っていた。その罪で天皇に殺されかけた時、自分の土地を献じて死罪を赦された。 その土地を「玉の代わり」=「玉代(たまて)」と名付けた。】 人物名の「アガノコ」も、贖罪に土地を差し出す話もそっくりです。

 そして、但馬国造は豢(ゐかひ)の姓を被る代わりに、但馬国朝来の人を播磨国に派遣して 猪飼(ゐかひ、豚を飼育)させることで、罪を赦されました。但馬国朝来(安佐古(あさこ))の人が来たので、安相(あさこ)里と名付けました。

 「安相」を「あさこ」と読むために、ここでは日本漢字音と韓国漢字音を使っています。 「安an」を「あ」と読むのは日本漢字音でも韓国漢字音でも説明できます。 「相」を「さこ」と読むのは韓国漢字音で説明できます。 韓国漢字「相sang」の「ng」は鼻音を示し、日本語の場合、子音で終わる時には、後に母音をつけて発音するので、「sang」は「さこ、さご、さぐ、さが、さか」などの発音になります。 「安相」は「あさこ」、「あさご」、「あさぐ」などと読む説があります。

 さて、この安相里の比定地です。 私が住んでいる姫路市白浜町の辺りを指しているのでは?と思っています。 麻生山の東北部、姫路市西部の土山.今宿付近、四郷町坂本、上鈴、中鈴、西見野付近など、諸説様々です。 白浜地域の海岸地帯がかって法隆寺領であったことを示す資料が「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」で、山本三郎氏は「播磨の塩作り」について述べられた時、安相里は市川河口の東山、八家辺りに比定されています。 安相里を白浜辺りと明記する説はありませんが、本の名を「沙部」という点からも、海岸地帯と考えてもよいでしょう。 ここは海辺だし、私が子供の頃には塩田もあり、安相里にピッタリのところです。 知人に、塩田で豚を飼うことはできるでしょうかと尋ねたら、もちろん餌さえやれば飼えるとの事でした。 この安相(あさこ)で、朝来(あさこ)からやってきた人が、豚の餌にする穀類を栽培し、豚を飼い、塩作りもしていたのではないかと想像しています 

 

4. 飼犭石⇒飼猪石=さゐ石

 いよいよ『播磨国風土記』揖保郡条の最終段、「飼犭石」と書いてある石について考えてみたいと思います。

揖保郡桑原里琴坂(たつの市揖西町子犬丸)の原文を検討したいと思います。

原文 「琴坂此処有飼犭石形似雙六之綵」

口語訳 琴坂 此処に「()()石」があります。 形は(すご)(ろく)の綵(サイ)に似ています。

解釈 諸本では飼犭石」は「銅牙石」と改変されています。 『古事類苑』金石部には「金牙石、銀牙石、銅牙石は皆形正四角形なり、雙六のサイの如き」とあります。 だから「形は雙六の綵(サイ)に似ている」石を「銅牙石」だと考える気持ちはよくわかります。 しかし、原文をよく見ると「銅」ではなく「飼」です。 問題は「犭」の字ですが、正倉院文書では、この字は「猪」の略体字とみなされています。 だから、飼犭石」を、私は「飼猪石」と読むべきだと考えます。

 谷川健一氏は、正しく飼犭」と読んで、飼猪(かうい)が子犬(こいぬ)丸地名に変化したのではないかと記しています。

 では「飼猪石」とは何でしょうか? 意外にも「飼猪石」は、私が今まで調べてきた「猪飼 ゐかひ」とは異なり、豚を飼うという意味ではなく、単に、読むための字として使っているようです。 安相里で述べたように、ここでも韓国漢字音と日本漢字音を使っています。

 「飼」は韓国漢字音読みで「sa」です。「猪」は日本漢字訓読みで「ゐ」です。 だから「飼猪石」は「さゐ石」と読むことができます。 これは「雙六のサイ」に似ているので、「サイ石」⇒「さゐ石」と名付けたと考えられます。

 「さゐ」と「サイ」では「ゐ」と「イ」の発音が異なるのでは?という意見もあると思いますが、万葉集にはこんな歌があります。 巻十六3827番「一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六の(さえ)(訓読は中西進 講談社版

 「采」の原文は「佐叡」。 岩波書店版の注釈によると、〔「采」の漢字音は「佐以」であるが、奈良時代の日本語にはai という母音の連続する発音はなかったので、子音yをはさんで発音してsaye となった。〕と書いてあります。 これに準じてsai「サイ」に子音wをはさんでsawi 「さゐ」となったと考えられます。 

 

5. 綵(サイ) だから飼猪石(さゐ石)

 「銅牙石」の語句が『延喜式』典薬寮 播磨国からたてまつる年料雑薬中に見える と岩波書店版『播磨国風土記』の注釈にありました。 『延喜式』原典にあたると、播磨国の年料雑薬として、薬草類に混じって「銅牙」と書いてあります。 これでは植物名なのか鉱物名なのかはわかりません。 ちなみに「金牙」、「狼牙」という植物名があり、「金牙石」という鉱物名があります。

 結論として、飼犭石」を「飼猪石」と改訂し、「飼猪石」は「さゐ石」と読むべきだと考えます。 口語訳をするなら、「琴坂に()()があります。 形は(すご)(ろく)の綵(サイ)に似ています」となります。

 そして、現在も琴坂付近で採取される「マスイシ」こそ、この()()石」でしょう。形はスゴロクのサイに似た正六面体の小さな石で、針鉄鉱の類と考えられます。

 『延喜式』の注釈で、「銅牙」は播磨国風土記(揖保郡)の記述を引き、形状、産出地から針鉄鉱の類かと考えられる、とあります。 他の辞典類、例えば『日本国語大辞典』を引いても、「銅牙石」の説明に、この播磨国風土記の記述があります。 しかし、私は「銅牙石」と読むことは誤りだと考えました。風土記の「飼犭石」の誤読から生まれた「銅牙石」が、あちこちに我が物顔で出ているのを見ると、「銅牙石」じゃなくて「さゐ石」!と訂正したくなってしまいます。

 

【引用・参考文献一覧】(五十音順・発行年順)

『文献史料』

『古事記』山口佳紀・神野志隆光校注訳(新編日本古典文学全集1)小学館 一九九七年       

『日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注(ワイド版岩波文庫230234)岩波

書店 二〇〇三年  

『日本書紀』小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守 小学館 二〇一二年

【風土記】

『風土記』秋本吉郎校注(日本古典文学大系2)岩波書店 一九五八年

『風土記』植垣節也校注・訳(新編日本古典文学全集5)小学館 一九九七年

『風土記』吉野裕訳(平凡社ライブラリー)平凡社 二〇〇〇年

『播磨国風土記』沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著 山川出版社 二〇〇五年

『風土記』中村啓信監修訳注(角川ソフィア文庫)KADOKAWA 二〇一五年

『古事記道果本 播磨国風土記』(新天理図書館善本叢書 一)八木書店 二〇一六年 

『新解 播磨国風土記揖保郡条』たつの市風土記ゼミナール たつの市教育委員会 二〇一六年 

【万葉集】

『万葉集』佐竹昭広 山田英雄 工藤力男 大谷雅夫 山崎福之校注(新日本古典文学大系1~

4)岩波書店 一九九九年~二〇〇三年

『万葉集』()() 中西進 全訳注 講談社文庫 二〇〇二年 

【その他史料】

『新撰字鏡(増訂版)』京都大学文学部国語学国文学研究所編 臨川書店 一九六七年 

『類聚名義抄(観智院本)』(天理図書館善本叢書32 33 34)八木書店 一九七六年 

『和名類聚抄(二〇巻本)』正宗敦夫校訂 風間書房 一九七七年 

『古事類苑』植物部二.金石部 吉川弘文館 一九八〇年

『和名類聚抄(高山寺本)』(新天理図書館善本叢書 第7巻)八木書店 二〇一七年 

『延喜式 下』(訳注日本史料)虎尾俊哉編 集英社 二〇一七年 

【辞典】

『大漢和辞典』諸橋轍次著 大修館書店 一九五五年~一九六〇年

『日本国語大辞典』一~二〇巻 日本大辞典刊行会編 小学館 一九七二~一九七六年

『大漢語林』鎌田正・米山寅太郎著 大修館書店 一九九二年

『漢辞海(第三版)』戸川芳郎監修 佐藤進・濱口富士雄編 三省堂 二〇一一年

【一般書】

「播陽灘地域古代の歴史」寺脇弘光著『播陽灘の里』姫路市白浜東土地区画整理組合一九九〇年

『風土記の考古学』 櫃本誠一編 「播磨の塩作り」山本三郎著 同成社 二〇〇五年

「琴坂の銅牙石」岸本道昭著『いひほ研究』第2号 いひほ学研究会 二〇一〇年

『列島縦断 地名逍遥』谷山健一著 冨山房インターナショナル 二〇一〇年

『玉縵と玉釼』孝橋明子著 二〇一六年

『図録 第70回 正倉院展』 奈良国立博物館 二〇一八年

 

 

 

琴坂のマスイシ 写真は岸本道昭氏提供

 

 

 

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