米を舂く乙女の美しい髪飾り
―『播磨国風土記』揖保郡荻原里条の新しい読み方―
孝橋明子
一 揖保郡条荻原里条を読む
『播磨国風土記』揖保郡条の中に「米を舂く乙女の美しい髪飾り」のことが書いてあります。そんな記事があるの?と、風土記に詳しい方なら、誰もが疑問に思われるでしょう。 でも書いてあります。
それは、播磨(針間)井という井戸のあった揖保郡荻原里のところです。まず、原文には「荻原」とあるのに、「萩原」と誤読されている「荻原里」の起源説話から、印影本(八木書店版)の原文を基に、文節ごとに原文、口語訳、解説と記していきます。
1 一夜にして荻が生える
原文:「荻原里 土中ゝ 右所以名荻原者息長帯日売命韓国還上之時御船宿於此村一夜之間生荻根高一丈許仍名荻原」
口語訳:荻原里。土は中の中。荻原という名は、息長帯日売命が韓国から還ってきた時、御船がこの村に停泊し、一夜の間に荻が生えました。高さは一丈ばかりです。それで荻原と名づけられました。
解説:「荻」はイネ科の多年草で水辺や湿地に生えます。荻と萩はまったく違う植物です。荻、葦也と『新撰字鏡』にあり、「草の名も所によりて変わるなり 難波の葦は伊勢の浜荻」という歌もあります。日本は豊葦原瑞穂國と呼ばれ、一夜の間に葦、つまり荻が生えるのは奇瑞とされます。
2 井戸を掘る
原文:「即闢御井故云針間井其処不墾」「又蹲水溢成井故号韓清其水朝汲不出朝尒」
口語訳:そして、御井を闢ました。それで針間井といいます。その場所は開墾しませんでした。また、穴を掘ると地下水が集まり、溢れて井戸になりました。それで、井げた井戸(韓清)と名付けました。その水は朝に汲みます。出なくても朝にだけ汲みます。
解説:闢井は井戸を掘る、です。闢(はり)御井(みゐ)⇒針(はり)間井(まゐ)でしょう。「み」≒「ま」の例として、万葉集九四四番と一〇三三番歌の「真熊野」は「みくまの」と読んだり、「まくまの」と読んだりします。「針間」は「播磨(はりま)」として、国名「播磨」の旧表記ともされています。
また、『類聚名義抄』には、「蹲はアツマル、モタヰ」。『大漢和辞典』では「集まる=蹲=墫=撙」とあります。「韓=ゐげた、井の垣。清=井=せい」と『大漢和辞典』にあり、「韓清」は「井桁のある井戸」と読めます。「尒は助詞で、のみ(耳)、文末に置いて、...だけである」と『漢辞海』にあります。「不出朝尒=出なくても、朝だけ(昼や夕には汲まない)」。朝、井戸から汲んだばかりの水は井華や井花といわれ、体によいということです。
3 酒殿と傾殿
原文:「造酒殿故酒田船傾乾故云傾田」
口語訳:酒を醸造する殿だから酒田(酒殿)。祭祀で酒器を傾けて酒を飲み乾し祝う場所だから傾田といいます。
解説:酒田の田は耕地の意味ではなく、田=でん=殿、酒を造る為の酒殿です。船は祭祀で用いる酒器。傾は、(酒器を傾け)酒を飲む(傾杯、傾壷、傾盃、傾觴)こと。乾は、(酒器の酒を飲み)乾して祝う、つまり乾杯。傾田(傾殿)は豊楽殿のような、酒宴をして祝う所≒傾宮。玉で飾った宮殿、傾=瓊、一説に、一頃の田程ある廣い室、と『大漢和辞典』は記しています。
4 米を舂く乙女たちの美しい髪飾り
原文:「舂米女等陰陪従婚料故云陰絶田」
口語訳:米を舂く乙女たちの髪飾りは、韓国から還上した息長帯日売命の陪従が、婚料としてくれた世にも美しい絶品の冠だった。そこで、その乙女たちが米を舂き、精白する臼殿を、最も優れている田(冠絶殿)といいます。
解説:舂米女(よねつきめ)は、酒造用の米を舂いて精白する乙女≒造酒童女(さかつこ)です。陰は、「かげ」=「蔭、冠、縵」=「髪飾り、頭上に戴くもの」です。陪従は貴人につき従う、ともびと、家来。婚料は結納、婚姻の儀に贈る禮物です。さらに、「陰絶は冠絶=最も優れていること、はるかに上回って、比べるものがないさま」と『漢辞海』にあります。
息長帯日売命の陪従が、韓国から持ち帰ってきた髪飾り(陰)は、とても美しい光り輝く玉縵だったと想像されます。玉縵を婚約の禮物として贈られた乙女は、その玉縵を頭に巻いて、米を舂いていたに違いありません。
この記述の「陰」を、「蔭」「冠」「縵」と同じ意味の語として扱っている解説書は、私の知る限りありません。すべての解説で、「陰」は「ほと」と読んでいます。風土記の他の記事では、「陰、蔭」は「かげ」と読むのに、荻原里条だけがどうして「ほと」と読むのか不思議です。おそらく、婚料を婚断と誤読したために、そこから間違った連想をしてしまったと思われます。
5 荻が栄える荻原
原文:「仍荻多栄故云荻原也」
口語訳:次々と、荻が多く栄え(生え)ました。それで荻原といいます。
解説:「仍」は副詞です。意味として、一番目に「頻繁に、かさねて、しきりに」。二番目に「依然として」。まさに、豊葦原瑞穂国のようです。
6 酒の神様 少足命
原文:「尒祭神少足命坐」
口語訳:ここに祭られている神は少足命です。
解説:尒は指示代名詞です。「かれ、これ、この、ここ、それ、その、そこ」と『大漢語林』にあります。「少足命」は『記紀』において、酒の司と呼ばれる少御神とは同神と思われます。なぜなら、荻原里では、造酒用水の井戸、酒殿、酒宴の為の傾殿、造酒用米を舂く乙女など、酒に関する話ばかり記されます。
『記紀』の「仲哀記」と「神功皇后摂政紀」に息長帯日売命が御子のために待酒を醸造し、詠んだ歌があります。『播磨国風土記』の息長帯日売命も、ここ荻原里で酒宴を開いて、こんな歌を詠まれたのでしょうか。
二、原文を正しく読み直す
1 荻原里はなぜ誤読されているのか?
二〇一四年三月、「はりま風土記の里を歩く会」が開催したシンポジウム「よみがえる播磨国風土記」に行きました。パネルディスカッションのコーディネーターをされた岸本道昭先生が「荻原里」について、こんな発言をなさいました。
「里の一つに「荻原」という里があります。ところが、ほとんどの風土記本は「萩原里」と書いている。比定されている場所に「萩原」と書いて「はいばら」と読む大字がございます。井上通泰先生以来ずっと言われているのですが、つまり井上先生が最初におっしゃったことがそのまま無批判に継承されてしまった、と思います」。このことは『いひほ研究』第三号にも「萩になった荻」として書かれています。
帰宅後、私の本棚にあった『播磨国風土記』(山川出版社、二〇〇五年)を見ると、正しく「荻原」と書いて、「荻原」と読んでいます。もちろん八木書店の印影本、原文は荻でした。岩波書店版の『風土記』は、「萩原」と書いて「萩原」と読み、注において、「底本では、この條の「萩」をすべて「荻」に作る。誤字」とあります。原文には「荻」と書いてあるのに、何故それを誤りとするのか?と疑問に思い、同時代に書かれた万葉集の「はぎ」の歌を調べてみました。
2 「萩」の字は万葉集に登場しない
万葉集で「はぎ」を詠んだ歌は一四一首あります。しかし「萩」の字を使った歌はありません。「はぎ」は「芽子、芽、波疑、波義」などと表記しています。『万葉集』(岩波書店版)の解説には、「萩」の字は万葉集には未だ登場しない」と書いてあります。
漢和辞書によると、「萩」は「よもぎ」を意味したが、後になって草冠に秋の字の「萩」をあて、秋を代表する花(はぎ)の和製漢字として使うようになったと書いてあります。
『播磨国風土記』の書かれた時代には「萩」の字は「はぎ」と読まれていなかったのです。そもそも原文には「荻」とはっきり書いてあるのだから、「荻原」にするべきだと私は考えます。
3 なぜ「荻原」に改正しないのでしょう?
残念なことに、最新の『風土記』(角川ソフィア文庫二〇一五年)でも「萩原」です。平凡社版は「萩原」。小学館版は「萩原」。私の本棚の風土記本では、山川出版社版だけが正しい表記です。訳注をされる先生方は、やはり井上通泰先生の呪縛からは逃れられないのでしょうか?素人の私には全く理解できないことです。
4 「冠」、「蔭」、「陰」を何故「かげ」と読むのか?
『播磨国風土記』の記載で、託賀郡法太里の「冠」、神前郡蔭山里の「蔭」、飾磨郡安相里陰山前の「陰」があります。これらは、多くの解説書で「かげ」と読まれています。これらの記事を読み解いてみます。
① 託賀郡法太里の「冠」を「かげ」と読む理由
託賀郡法太里「甕坂」の地名由来は要約すると次のように書いてあります。
「建石命は界にするために「御冠」を此の坂に置いた。それで「甕坂」。一説には、昔、丹波と播磨の国の界に「大甕」をここに掘り埋めた、それで「甕坂」」
「冠」は、諸本で一般的に「かげ」と読まれます。ここでは、「御冠」「御冠」の始めの二字「みか」⇒「甕」が「みか坂」の由来とされています。冠には呪力があって境界を守るとされるほか、大きい甕に神酒を容れて境界で儀礼を行ったりしたことが、甕坂の地名由来になったようです。
② 神前郡蔭山里の「蔭」を「かげ」と読む理由
「神前郡蔭山里 蔭山というのは、品太天皇の御蔭が此の山に落ちたので、蔭山といい、また蔭岡といいます」。
『和名類聚抄(高山寺本)』神崎郡条では、「蔭山 加介也未」とあるので、「蔭山」を「かげやま」と読むことに異論はないようです。
「御蔭」は、『日本書紀』の持統元年に、「以花縵進于殯宮 此曰御蔭」とあり、天武天皇の殯宮に進上した「花縵」=「御蔭」とされています。その「花縵」について、万葉学者の上野誠先生は、「蔓性の植物で作った飾り物、今日の花輪の類と考えてよい」(『万葉挽歌のこころ』)と書いておられます。
「御蔭」の「御」は美称、「蔭」は生命力が強く、邪気を払うとされる蔓草(『和名類聚抄』『日本国語大辞典』)。日陰蔓(ヒカゲノカヅラ)を頭に巻いて、鬘(カヅラ)にした。それで、頭の上に載せる髪飾りを「カゲ、陰、蔭、縵、冠」というようになったと思われます。
要するに、「カゲ」=「鬘(カヅラ)」=「縵(カヅラ)」=「冠(カンムリ)」です。
③ 飾磨郡安相里陰山前の「陰」を「かげ」と読む理由
飾磨郡安相里陰山前の「陰山」と神前郡蔭山里の「蔭山」は同じ山を指していると考えられ、「陰山」=「蔭山」=「かげ山」と読まれます。陰山前には、諸本で誤読されている箇所もあるので、原文から読み解きたいと思います。
原文:「品太天皇従但馬巡之時縁道不徴御削故号陰山前」
解説:徴は、「徴」の字に手偏がつきます。意味は「刺」と『大漢和辞典』にあります。「御削」の削は名詞で、一番目の意味に書刀。竹簡に文字をきざみつける小刀とあり、二番目は、刀の削=さや=鞘とのことです。ここでは、両方を意味し、刀の「さや」に刺しておき、必要な時には髪に刺し、冠が落ちないように留める先の尖った箸のような形の「笄、簪、カムサシ、加美加岐、かうがい」を意味していると思われます。
口語訳をしてみると、品太天皇が但馬より巡幸の時、道中、御刀の削に笄を刺していなかったので、頭上の冠を固定することができず、山の手前で冠(陰)が落ちてしまった。よってその場所を陰山前といいます。
5 品太天皇の「かげ」はどんな「かげ」?
私は以前、賀古郡で大帯日子命が求婚に行く時に身に付けていた弟縵は玉縵だと書いたことがあります。今回も、米を舂く乙女たちの陰は玉縵だと思います。
では、神前郡蔭山里や飾磨郡陰山前で品太天皇が身に付けていた「かげ=陰=蔭」も玉縵でしょうか?やはり私は玉縵だと思います。その答えは『万葉集』や『日本書紀』にあります。
① 『万葉集』の玉縵と影
巻二、一四九番「人はよし 思い止むとも 玉縵 影に見えつつ 忘れえぬかも」
これは天智天皇が崩御した時、倭大后が詠んだ歌です。玉縵は「かげ」の枕詞だと説明されます。この歌での「影」は「面影」のような意味で使っていますが、本来「かげ」は頭に戴く「陰、蔭、冠、縵」です。それは「玉を緒で連ねた頭の装飾品の玉縵」と同意語でした。だから、「玉縵」は「かげ」の枕詞になっているのです。
② 『日本書紀』の「髻花」と「玉縵」
推古天皇十一年十二月、始めて冠位を行い、冠るものなどを決めましたが、元日だけは髻花(うず)をつけてもよいと書いてあります。「髻花」は「木の葉や金銀の飾り物を髪に挿したもの」というのが一般的な解説ですが、『新撰字鏡(享和本)』にはこう書いてあります。「日本紀には髻花を宇須と云うが、釈日本紀では珠之玉冠という」。すなわち、「髻花」=「珠之玉冠」=「玉縵」です。この記事から判断すると、推古天皇十一年に冠位が決められる前は、宮廷の多くの人が「玉縵」を冠っていたと想像されます。
③ 「髻花 うず」「玉蔭」を詠んだ『万葉集』
巻十、三二二九番「五十串立 神酒座奉 神主部之 雲聚玉蔭 見者乏文」
この歌の「雲聚玉蔭」とは「玉縵」と同じものと考えられますが、その形は、たくさんの珠を長い緒に通したものでしょうか?それとも、神社の神宝に見られるような玉冠でしょうか?ちなみに、「安康天皇記」で押木之玉縵と云われるものは、韓国ドラマで新羅の善徳女王が冠っている玉冠のようなものだといわれています。
三 まとめ
『播磨国風土記』揖保郡条の荻原里の解釈について、二点にまとめます。
この里の名は、萩原ではなく、荻原です。荻と萩を取り違えてはいけません。
「陰絶田」の「陰」は「玉縵」のことだと考えます。舂米女の陰を絶ったとする解釈は誤りです。舂米女が贈られた冠を絶賛する話だったのです。
私は最近、「かげ」についていろいろ考えてきました。古墳の出土品などから見ても、風土記に記される「かげ=陰=蔭=冠=縵」は、「玉を緒に連ねた玉縵」のことだと思っています。
【引用・参考文献一覧】(五十音順・発行年順)
『文献史料』
『古事記』山口佳紀・神野志隆光校注訳(新編日本古典文学全集1)小学館 一九九七年
『日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注(ワイド版岩波文庫230~234)岩波
書店 二〇〇三年
【風土記】
『風土記』秋本吉郎校注(日本古典文学大系2)岩波書店 一九五八年
『風土記』植垣節也校注・訳(新編日本古典文学全集5)小学館 一九九七年
『風土記』吉野裕訳(平凡社ライブラリー)平凡社 二〇〇〇年
『播磨国風土記』沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著 山川出版社 二〇〇五年
『風土記』中村啓信監修訳注(角川ソフィア文庫)KADOKAWA 二〇一五年
『古事記道果本 播磨国風土記』(新天理図書館善本叢書 一)八木書店 二〇一六年
【万葉集】
『万葉集』鶴 久 森山隆編 おうふう 一九七二年
『西本願寺本万葉集』(普及版)主婦の友社編集 お茶の水図書館 おうふう編集協力
一九九三年~一九九六年
『万葉集』佐竹昭広 山田英雄 工藤力男 大谷雅夫 山崎福之校注(新日本古典文学大系1~
4)岩波書店 一九九九年~二〇〇三年
【その他史料】
『新撰字鏡(増訂版)』京都大学文学部国語学国文学研究所編 臨川書店 一九六七年
『類聚名義抄(観智院本)』(天理図書館善本叢書32 33 34)八木書店 一九七六年
『和名類聚抄(二〇巻本)』正宗敦夫校訂 風間書房 一九七七年
『和名類聚抄(高山寺本)』(新天理図書館善本叢書 第7巻)八木書店 二〇一七年
【辞典】
『大漢和辞典』諸橋轍次著 大修館書店 一九五五年~一九六〇年
『日本国語大辞典』一~二〇巻 日本大辞典刊行会編 小学館 一九七二~一九七六年
『大漢語林』鎌田正・米山寅太郎著 大修館書店 一九九二年
『漢辞海(第三版)』戸川芳郎監修 佐藤進・濱口富士雄編 三省堂 二〇一一年
【一般書】』
『麹(こうじ)』一島英治著(ものと人間の文化史138)法政大学出版局 二〇〇七年
『井戸』秋田裕毅著(ものと人間の文化史150)法政大学出版局 二〇一〇年
「萩になった荻」岸本道昭著(『いひほ研究』第三号)いひほ学研究会
『万葉挽歌の心』上野誠著 角川学芸出版 二〇一二年
『酒』吉田元著(ものと人間の文化史172) 法政大学出版局 二〇一五年
『播磨国風土記一三〇〇年-記念シンポジウムの記録』楽浪の会 二〇一五年
『玉縵と玉釼』孝橋明子著 二〇一六年